「人魚の眠る家」観ました

人魚の眠る家東野圭吾「人魚の眠る家」。臓器移植医療と倫理の問題を題材にした作品。わが国では97年に人の「死」とは、心停止に加えて脳死を人の「死」とした法律が施行された。2009年には本人の同意がなくとも、家族の承諾で脳死下での臓器提供が可能となった。目覚ましい技術的な飛躍を遂げている臓器移植医療。その一方で、臓器売買などの問題もある。

そうした人の意思を尊重した高い倫理性を問われる脳死をテーマとしたこの作品は、科学進歩と、その当事者の家族の心理描写、正義とは何か。色々考えさせるものになっている。

娘の瑞穂がプールで溺れ、意識不明になる。その母「薫子」を演じる篠原涼子。その夫「和昌」を演じる西島秀俊。篠原涼子と言えば「雪平」を思わず思い出してしまう。「アンフェア」の印象が深い。

回復の見込みがないわが子を生かし続けるか、死を受け入れるか。

娘の脳死。だが娘の回復を信じて、和昌は自身の会社の最新技術を使い、神経に電気信号えを与え、手足を動かしたりや顔の表情をつくる。脳死ではあるが、「脳」以外は正常である。脊髄から電気信号が伝わり筋肉は動作する。それは、健常者ほどではないが、少なくとも寝たきりとは違い、そのことで娘の肉体の健康を維持し続ける。

しかし、毎日の介護により薫子の娘への溺愛ぶりは正気ではなくなっていく。

ひょっとして生き返るのではないか。目を開いて話しかけてくるのではないか。そうした気持ちになるのも無理もない。一度は諦め、娘の死を受け入れた薫子。それが「奇跡」を願うようになる。それは子への愛情なのか、それとも自身の願望を叶えるための道具なのか。

映画作品は、書物から得られるものとは違う。脚本や映像表現によって違った見方を与えるものだと思う。セリフがなくても間から得られるもの。視線とか仕草。子どもへの愛情・思い。景色の捉え方。そして俳優それぞれの個性のある芝居、個性・キャクター。映像から伝わるもの。そこからどう感じ取るかは人それぞれ。まさに三者三様。

「お前は異常だ」と言われながらも、母である薫子の発する言葉の重みには、確かに「そのとおりだ!」と納得感がある。「生きる」とは「生き甲斐」。生き甲斐を求めて真剣に毎日を重ねていく。そうしたことが大事なんだと。

この作品は、なんともやり切れない悶々とした思い。「脳死」を一度は受け入れながらも、ひょっとして、懸命に介護し続ければ、奇跡が起きるかもしれない。それは、母親の身勝手な独りよがりなのか。近所やママ友など第三者から観れば、「怖い」と思われてしまうかも知れない。でも当事者は必死。その気持ちが良く伝わる。

「お願いだから、目を覚まして欲しい」何度もそう思う。「これは夢なんだ」目が冷めたら、いつもの以前の生活がまた始まるんだ、と思ってしまう。

私も脊髄損傷をして入院したとき、夢と現実がどちらかわからない時があった。「これは夢なんだ」明日起きれば元の生活が始まると。

しかし現実は何も変わらない。願いは叶わない。それが現実。痛いほど無常な現実。

重大な結果を生むかも知れ無いとき、人には「覚悟」というものが必要で、それを自身で納得するための論拠も必要なのかも知れません。見ごたえのある作品でした。★★★☆☆

投稿者プロフィール

天雨 徹
天雨 徹
人財育成、技術系社員研修の専門家。名古屋工業大学客員准教授。博士(工学)。修士(経済学)。専門は「電力システムネットワーク論」
ブログでは日々の気づきを中心に書いている。
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